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| 2005年8月 「鎌倉の宝物」 (江ノ電沿線新聞) |
秋田県から鎌倉に移築した酒蔵に住んでいると本紙6月号に書いたが、最近は建物が目立つせいか様々な方が訪ねてくる。見学希望をはじめCM撮影の依頼、ライブ会場に使わせて欲しいというレコード会社など色々である。そんな中で最近嬉しかったのはある日の夕方、初老のご婦人が訪れた時だ。「この建物が建って本当に嬉しい。それだけを一言伝えたかった。」とおっしゃる。せっかくなのでもう少しお話を聞くと「30年以上も鎌倉に住んでいるが今の鎌倉はどんどん昔の風景が消えていく。素敵なお宅が突然解体されて更地になったかと思うと、駐車場になったりマンションになったり。そんな中で古い情緒ある建物が建ったことが嬉しかった。」その言葉はこの蔵の移築再生にかかわった者として心に響くものだった。
古い建物であってもお寺や神社などの文化財は残るが、住宅はなかなか残らない。その原因の多くは相続にあると聞く。相続で土地を分割したり売却する時にそこにある住宅が取り壊されてしまうのである。財産をどう処分しようと自由な個人、一方で町の景観を保っていきたいと思う市民。その溝は深くここ鎌倉でも様々な保存運動があったが両者が歩み寄った例は少ないようだ。
町にとって大事な文化財は神社仏閣だけではなく住宅をはじめ様々な建物や橋などの工作物も含まれるという認識がようやく我が国でも広がってきた。一昨年施行された「景観法」という法律や9年前に施行された「登録文化財」という国の制度もそれをバックアップしている。登録文化財とは50年以上経過した建物で町にとって一定の意味があるものについて個人が登録できるという制度である。国が指定する文化財に対してこちらは自己申告の文化財とでも言えよう。
国指定と異なって、登録されても金銭的な補助はほとんど無いが、そのかわり内部をどう使おうが自由、外観を変える時だけ届ければよいというものだ。ただし一昨年から相続税の減免という大きなメリットがこの制度に追加されて全国で登録件数が増加しているようだ。
鎌倉市は世界遺産登録を目指しているようだが、一個の宝物が風景を作るのではなく一軒の住宅や一本の樹木、一筋の小川も市民にとっては重要な宝物であり、それらを含んだ鎌倉の景観を世界に誇れるようになりたいと思う昨今である。 |
| 2005年6月 「酒蔵に住む」 (江ノ電沿線新聞) |
明治21年に建てられた秋田県の巨大な酒蔵を鎌倉に移築して半年が過ぎた。移築を思い立ったのは2年前。私も所属するNPO日本民家再生リサイクル協会の会員であるこの土地の持ち主の発案だった。「蔵を移築して賃貸住宅にしたい」。この協会は我が国の文化遺産の1つである民家を1棟でも残したいという想いの人々が集まって8年前に発足、現在全国で約2000人の会員を擁するまでになった。その活動の中心が「民家バンク」制度。これは様々な理由でいらなくなった民家を登録していただき、それを譲り受けて移築する人への橋渡し役をする制度で、現在までに60棟の民家が救われている。
バンク登録される民家には農家の土蔵もあるがこの酒蔵のように大きな蔵は稀である。秋田県湯沢市の街中に建つこの蔵を初めて見たとき、建主と私は思わず目を見合わせた。稠密に立つ太い柱、柱を結ぶ大きな梁、巨大な戸前(蔵戸)…。早速譲り受けることにしたが当然ながら巨大なこの建物の移築に伴う困難が予想された。最も懸念されたのが屋根の中央に載る長さ20m近い継ぎ目の無い棟木の輸送である。果たして鎌倉の町に運び込むことが出来るのか?もう1つの問題は戸前である。観音開きで重さが約3トン。これを傷つけないで運べるのか?当初棟木は中央で切断して運ぶことにした。ところがそれを聞いた元の持ち主は「それなら譲らない」と言う。
確かにクレーン車も無い時代に多くの人手を借りてこの棟木を屋根に載せた人々の苦労を考えると、切断は余りにも安易な解決であった。かくして棟木の大輸送作戦が始まった。運送会社の社長自ら鎌倉へ出向いて道路の下見をしてその結論は「何とかなる」。戸前の方は柱が付いたまま外して特殊車両で輸送、棟上げ直前に無事元の位置に収まった。こうして昨年5月、棟木が屋根に載って建前が完了。古式にのっとり上棟式が執り行われた。「カーン、カーン」棟梁が玄翁で棟木を叩く音が新緑の扇ガ谷にこだましたのであった。
現在私はこの移築が縁で、蔵の一部を借りて住まいと設計事務所にしている。秋田から持ってきた土で再び塗られた土壁の優しさに包まれて仕事をする喜びを噛み締めているこの頃である。 |
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| 2005年4月 「水槽は語る」 (建築とまちづくり No.332) |
初めて沖縄に行った。羽田を飛び立つとすぐ海の上。エメラルドグリーンのサンゴ礁が見えたと思ったらもう機体は降下を始めている。あっけないほどの二時間半だ。
那覇空港に降り立つとさすがに南国の太陽が強烈だ。空港に直結するモノレールに乗って首里城へ向かう。最近開通したというモノレールは窓も低く座席からの眺めがとても良い。運転手は“かりゆしウエアー”(アロハのようなカラフルなシャツ)姿の女性。ワンマンカーなので彼女はドアの開閉、駅名案内、運転となかなか忙しい。
モノレールは地上5階くらいの高さを走るので町の風景が手にとるように分かる。那覇市内の中心部はビル街だがそのビルの谷間に赤瓦の民家があったりする。中心部を過ぎてモノレールは坂道を上り始める。斜面にへばりつくようにコンクリート住宅が並ぶ様は壮観だ。
ふと変な物体が目に入る。屋根の上に必ず水槽が乗っているのだ。ビルやマンションの屋根に高架水槽が乗るのは当たり前だがここでは平屋の住宅にも水槽が乗っている。これはどうしたわけか。気になり始めるとそこばかりに目が行ってしまう。
最も多いのがステンレスのドラム缶風の水槽そのままというタイプ。その次に多いのがそのステンレス水槽をコンクリートの箱の中に入れたタイプだ。箱のデザインは千差万別だが、穴明きブロック型、屋根付き型に大別できる。箱を一本足のような柱で支えるタイプもある。なぜこれほど水槽デザインに執着するのか。もしかするとこの水槽に沖縄の風土の根幹が隠されているのかも知れない、などと勝手に想像するのである。
謎はすぐに解けた。仕事で水道局へ行って「どうして戸建住宅にも水槽があるのですか?」と訪ねると「ここ数年は無いのですが、昔はしょっちゅう断水したのです。それが記憶にあって水を確保する為に水槽を置くのですよ。別に水道局で強制しているのでは無いのです。」やはりここは本州から見れば絶海の離島なのだとつくづく感じた。水は生活の生命線。それが無くなるという心のトラウマは一朝一夕では消えないのだ。
 沖縄本島から舟で20分という離れ島へ渡ってますます沖縄水事情を実感した。民家の横には大きな水槽が必ず設置してあるのだ。屋根からの水を貯水して断水に備えているのである。中でもコンクリート管を積んだ天水桶が庭にドンと鎮座している民家は中でも圧巻であった。屋根の谷の雨水を見事に貯めこんでいるのだ。
風土がもたらすデザインがあるとすれば沖縄の水槽は正にそれである。その水槽デザインにあれほどまでに力を入れる建築家。生命を守る水への賛歌を屋根の上で高らかに歌っている。彼らに乾杯。 |
| 2005年3月 「トタンの力」 (建築とまちづくり No.331) |
鎌倉に住まいを移して半年。ようやく町になじんできた。
市内には百数十の寺院や神社があるというが、見終えるには最低10年と友人は言う。もちろん神社仏閣にも興味はあるが、町中のさりげない風景にも心惹かれるものがある。整った家々の門や塀、生け垣越しにのぞく庭の風情、素敵な玄関回り。そんな町歩きの中で最近気になっているものがある。市内の至るところでその存在を主張している波型トタンである。
トタン屋根はもとよりトタン壁、トタン扉、トタン塀。しかも一軒の家が上から下まで全て波型トタンという感動モノまである。色彩も茶、白、青、黄とカラフル。それらのパッチワークを楽しんでいる風の「トリコロールハウス」もある。なぜ、トタンが町を席巻しているのか。好奇心の虫が騒ぐ。
トタンを使用している家の年代を観察すると、新築の家は少なく、ほとんどが古い日本家屋である。さらに観察すると、壁に貼ったトタンの下は土壁という家が多い。痛んだ土壁の修繕の代わりに使われているのだ。戦災に遭わなかった鎌倉には戦前からの、古くは関東大震災以降の家が多く残る。修繕には安価でしかも素人仕事でも貼れるトタンが使われたのだろう。
このセルフビルド的な素材としてのトタンの利用は全国的だ。数年前に刊行された『小屋の力』という本がある。農作業小屋から隠遁小屋まで実に様々な小屋のオンパレードという見飽きない本だ。その中で日本の小屋は圧倒的にトタン仕上げが多いことに気づく。トタン文化が脈々と続いているのだ。
「トタン」という言葉の語源はペルシャ語。我が国ではポルトガル語の「タウタン」が訛ったものらしい。語源からみても結構昔からヨーロッパにあった素材らしい。鉄板に亜鉛メッキを施したもので、錫をメッキした「ブリキ」より耐久性があると言われる。
そのトタンを波型に加工したものが波型トタン。波にすると鉄板が薄くても曲がらないので考案されたのだろう。JISにも規定されていて大波と小波がある。大波は波の高さ18o、波幅76.2o、小波は同9o、31.8o。我々がよく見るのは小波の方だ。そのまま使ってもよいが、ペンキを塗って耐侯性を持たせるのが普通である。
戦中戦後派世代にとって、トタンには応急住宅、バラック住宅のイメージがつきまとう。かく言う筆者の育った家にもトタンの風呂小屋があった。雨が降るとバラバラと屋根が鳴って話もできないほどだったのを覚えている。その小屋も家の増築の時にはなくなった。ところがここ鎌倉では海に近く塩害の心配があるのにしぶとくトタンが残っている。震災後に応急に建てた家がそのまま残ったのか、あるいは建て替えがままならない道路事情がからむのか。
それにしても、スケッチしたこのなんとも珍妙な建物は、まさに「トタンの力」。決して応急住宅ではなく真面目なトタンデザインである。鎌倉のトタン文化の奥は深い。 |
| 2005年2月 「屋根裏の探検者」 (建築とまちづくり No.330) |
『屋根裏の散歩者』はご存知江戸川乱歩の傑作。名探偵明智小五郎が密室殺人のトリックにいどむ作品である。真っ暗な天井裏を這いずり回って天井板の隙間から下の部屋を覗くぞくぞくするような楽しみを、よくも素晴らしい推理小説に仕立て上げたものだ。
筆者の場合は民家調査という職務上、下を覗かずに上を見上げ、屋根裏の構造を眺めてぞくぞくしている。屋根裏には得体の知れない様々な物体があるからだ。
鼠や鳥の死骸が横たわっているのはよくあること。蜂の巣があるときは要注意。屋根裏でこちらが仏様になりかねない。そんな危険にもかかわらずこの暗い空間が魅力的なのは、驚くべき発見があるからだ。
ある民家ではほこりの下から棟札が出た。棟札は棟木や束に取り付けてあるものだが、この家は関東大震災でだいぶ傷んだと聞くので、その時に天井に落ちたのであろう。80年のほこりの堆積が今までの発見を妨げていたのだ。
千葉県のある民家では柱に奇妙な黒い物体が縛り付けてあった。近づいてみると藁の米俵である。なぜ屋根裏に米俵か。すぐにでも中を見たいという誘惑を押し留めてその場は終えた。その後様々な文献を読んだがはっきりしない。結局地上に下ろして衆目の前でうやうやしく蓋を開けた。中からは大量の紙のお札、そのほか一振りの木剣と一連の数珠が出てきた。お札を調べると、地元の神社やお寺だけではなく伊勢神宮のお札まである。毎年いただくお札をこうして棟上げの儀式の時に俵に詰める風習があったのだ。
別の現場では棟木に鏑矢(かぶらや)と一緒に草鞋(わらじ)が縛り付けられていた。鏑矢は棟上げ式に屋根に掲げるものだが草鞋は何か。これも儀式と関係があるのか、まだ解明されていない。
屋根裏で昔の大工技術を見て驚くことがある。数年前四国の民家で発見したのは、天井板を留める竹の「稲子」であった。昔の天井板は薄い杉の板を棹縁に乗せて上から釘で固定する。そして棹縁と棹縁の中間で重くなった板同士に隙間ができるのを防ぐために「稲子」という小さな木片を板に差し込む。その細工は大変で、「蟻」という加工によって稲子と板を緊結させるのである。しかし四国のその現場では、竹の小片を三角形断面に削り、板のほうは鋸(のこぎり)で逆三角形に溝をつくり、その溝に竹を差し込んでいた。木の稲子より簡単に板同士を固定する優れた方法である。竹稲子を手にとってつくづく眺めると、実に丁寧に削っている。竹釘は知っていたが竹稲子ははじめてであった。
同じ現場でもっと驚いたのは、たった7oの天井板を「本実(ほんざね)」という加工によってまったく平に貼っている箇所であった。7.5oの板に2oの厚さで深さ12oの溝を全体に彫り、そこに先端を厚さ1oほどに鉋(かんな)で薄くした板を差し込むという気の遠くなるような仕事であった。
屋根裏に隠されたこのような優れた技や民俗風習。まだ当分の間それらを求めて私の屋根裏探検は続きそうである。 |
| 2005年1月 「戸前の不思議」 (建築とまちづくり No.329) |
戸前とは蔵の土扉のことである。大切な財産を火災から守る大事な扉である。形式としては引戸と開き戸があり、開き戸では軸吊りによる方法と肘鉄(ひじがね)と呼ぶ丁番で吊る方法がある。前号で紹介した明治21年の棟札がある秋田県の酒蔵では、高さが3m近くもある巨大な戸前が3箇所あった。いずれも肘鉄による観音開きの形式である。道路に面する戸前は二重になっていて最初の戸前を開けると風除け室ならぬ「火除け室」があり、そこに二番目の戸前があるという念の入れ方であった。おかげで大正14年の大火にも焼け残ったと持ち主は言う。
戸前にはわからないことが多い。1枚1トン近い重量をどうやって丁番と内部の骨組みで支えているのか、また「かけご」という段々になった合わせ目を半紙一枚の隙間で仕上たり、爪で擦ってもびくともしない硬い漆喰を塗る左官技術もあまり伝わっていない。今回の酒蔵移築工事でその不思議を少しでも解き明かしたいと思っていたが、幸いなことにその戸前を一組解体することになった。
持ち主ほか関係者一同が集まりお神酒を扉に奉納してうやうやしく一礼、いよいよ解体が始まった。
表面の黒漆喰を剥がして断面を見ると、厚さ3o、白い漆喰の上に黒漆喰が薄く塗られている。立ち会った左官職人の解説によれば、強く鏝(こて)を当てた漆喰がまだ生乾きのうちに黒いノロをかけて最後は手で何度もこすって磨くという高度な技術で、その昔は戸前専門の左官職人がこうした鏡のように光る壁を作ったのだと言う。なんと戸前一箇所で90人工要したとのこと。戸前は蔵の顔であると同時に大切な財産であるのだ。
漆喰の下は土、その表面は固く締まっている。バールでは歯が立たず電動ブレーカーを持ち出して崩すとようやく木材が見えてきた。骨組みは栗材。肘鉄の腕はその骨組みの中央を貫いて扉の先端側の骨まで伸びて鉄のクサビで留めてある。肘鉄のもう一方の腕は扉を支える「さね柱」を貫いて斜めに室内側の柱まで伸びている。片や「さね柱」と室内側のもう1本の太い柱は櫓貫(やぐらぬき)と呼ぶ水平材によって上下で緊結されている。こうして重量のある戸前を3本の柱で堅固に支える仕組みがだんだんとわかってきた。
戸前を正面から見ると向かって右の扉よりも左の方が大きく見える。右の扉を男扉、左を女扉と呼び、扉を閉めるときは女扉を先に閉めてから男扉を閉める。女扉は「かけご」に男扉が重なるのである。そのため扉の内側の見付け巾が異なるのである。酒蔵の持ち主によれば扉を閉めるときには決して「かけご」に手をかけないで中央の丸い鉄の輪を引っ張るようにと厳しくしつけられたとのこと。
今回の移築では戸前を3本の柱ごとそのまま外して再取付けする大工事を行った。ひとたび戸前だけを肘鉄から外すと再び取り付けることが困難であることを知っている施工者の進言であった。戸前の不思議に益々のめり込むこの頃である。 |
| 2004年12月 「土蔵の解体」 (建築とまちづくり No.328) |
高さ5m、長さ20m。土の壁はまるで城壁のようにそびえていた。ゴーグルと防塵マスクを着けて大きなバールを両手で握る。力まかせにドスンと壁に突き刺すと表面の土が少し剥がれ落ちた。
秋田県湯沢市。駅前商店街の一角の解体現場に集まった人は子供から大人まで総勢50人あまり。「土壁解体ワークショップ」と銘打ったこのイベントは蔵の移築にともなう一連の工事を体験してもらおうと企画したものだ。作業を始める前にこの蔵の持ち主に由来を話していただく。
明治21年の棟札のあるこの蔵は酒の仕込蔵として建てられたが、その後一部に客座敷をつくり、近年は残りの部分を倉庫として使用してきた。その間、大正14年の湯沢市大火災は市内中心部を焼き尽くし、多くの土蔵も灰になったが、この酒蔵だけは焼け残った。また、新潟沖地震では壁に亀裂が入った程度で事なきを得た。先祖の自慢は狭い間隔で立つ柱がほとんど栗材であること、長さ10間(18m)もある長くて太い棟木、合計3ヵ所の大きな戸前(防火戸)だったとのことである。
厚さ30mもある土壁の内部がようやく露わになってきた。ところが壁の下地である小舞の竹が出てこない。一般に土蔵は丸竹を縦横に編んで小舞をつくるが、見えるのは細い木の丸太ばかり。縦には直径3pほどの樫材と思われる丸太。表面は丁寧に刃物で皮をむいている。横は皮付きの雑木。その丸太同士を結束している縄は見慣れた藁ではなく黒い木の繊維である。一緒に解体を手伝っている左官職人に聞くと「わらび縄」ではないかと言う。わらびの根でつくるらしい。同じ土蔵でも地方によってこうも材料が違うものかと改めて民家の奥の深さを知る。
屋根解体チームも土と格闘している。厚さ18pの土が屋根全体に載っているのだ。硬く締まった土は簡単にスコップですくえない。遂に道路工事で使う電動ブレーカーを持ち出すことになった。崩した土は1立米の袋に入れて屋根に並べていく。後の報告によれば最終的にこの蔵から出た土は屋根と壁の合計で100立米以上という。今回の移築に際してはそのうち10立米を土壁として再生使用することにした。
土と2日間格闘して考えた。土蔵は土による耐火建築なのだ。その耐火性能は壁から屋根へと連続する土に包まれていることによって保証される。その構造は膨大な土の重量を支えることが目的となる。柱と同じ断面の太い垂木が屋根の土を支え、その重さが密に立った通し柱を経て土台に達する。壁土の重量は土台だけでなく基礎石にも直接伝わる。左官職人に求められるのは厚い土壁をその構造体に緊結することである。小舞を芯にして何度も塗り重ねる土は縦縄、横縄などで一体化させる。昔は最初の「荒打ち」から「上塗り」まで17工程、数年の工事期間が当たり前だったという。
次回は土蔵の左官工事でも最も難しいと言われる戸前について報告することにしよう。 |
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